2003年7月のメッセージ
「寄生虫」

阪神タイガースの話題で、世の中が盛り上がっています。これは私にとって、かなり居心地の悪い状態です。とは言っても「もちろん」、私は巨人ファンではありません。いつのころからか、プロ野球にまるで興味が持てなくなってしまっているのです。プロ野球は、私にとってただ退屈なスポーツです。夜、どのチャンネルもプロ野球ダイジェストばかり。他に見る番組がなく、退屈です。朝に、すべてのチャンネルがワイドショーをやっているのと同じです。日本のテレビ局はどれも同じで、チャンネルの個性がまるでありません。ケーブルテレビに契約して、最近ようやくこの退屈さから免れることができました。

なぜ私がプロ野球に興味を持てなくなったのか、考えてみました。スポーツが嫌いというわけではありません。しかし、毎日毎日、他人のプレイをテレビや新聞で見ることには、興味がないみたいです。さらに、他人のプレイを偉そうに批判する評論家・解説者には、これはもう、退屈どころか苛々します。球場に行ったら解説者の話を聞かずに済むので、もう少し楽しめるのかもしれません。

日本人というのは、とにかく評論が好きです。一億総評論家といってもいい。軍事評論家、地震評論家、SARS評論家、オーム真理教評論家、芸能レポーター、..様々な評論家がテレビに出てきます。でも評論家というのは結局、プレイヤーを食い物(ネタ)にして生きる寄生虫です。そこから何も生まれません。

元大学助教授の政治評論家が、小泉さんの応援団を公約して国会議員に当選したら、当選後は小泉さん批判を始めました。政治家は評論をするのではなく、政治をするべきです。せっかく国会議員になりながら、何時までも他人の評論ばかりして政治家になれない人は、見ていて哀れです。同じように、政党から立候補した大学教授の評論家が、国会議員になったとたんに、推薦してくれた政党を批判をして離党しました。政党の評論をするのではなく、政党政治をして欲しいものです。総理大臣の公約を批判・評論するばかりの与党政治家も、哀れです。

同じ大学教授でも具体的に構造改革を実行する竹中さんに対して、文句を言うだけの国会議員たちは、ただ惨めに写ります。一体、どちらがプロの政治家でどちらが評論家なのか。

そしていま、日本の大学にも、評論の嵐が吹き荒れています。国立大学の法人化に関してです。大学が法人化の当事者として具体的な提言や行動をするのではなく、貴方任せに評論家のごとく文句ばかりを言っている間に、文科省は規制の網を2重3重に掛けようとしています。大学は法人化後の教育と研究をどうしたいのか、はっきりビジョンを示して行動したいものですが、国の意向を窺ったり国の方針に文句を言うばかりです。

法人化したらまるで大学から印度哲学が無くなるようなことを言われる大学人がおられますが、この大学は印度哲学に重点をおきますと、総長が決めればいい。他人事のように心配するするより、大学には決断と行動が求められます。

法人化して大変になるのは印度哲学や文学ではなく、理工系や医学系です。90年を境に、流通・サービス業(第3次産業)の就業人口が製造業(第2次産業)の就業人口を上回ったのにもかかわらず、理工系学部の学生定員や教官数はほとんど減少していません。これをどうするのかを、大学自身が議論するべきです。製造業がアジアに移り、就業者数が激減しているのだから、理工系離れが起きるのはむしろ適正な調整です。もともと物理や数学が好きでもないのに、就職がいいからという理由で理工系に進んだ学生が、文系に移るのは憂うべきことではありません。大人が理工系が大切だといくら評論してみても、自分の未来に責任のある若者は正しい選択をします。

法人化後は、各学部の教官と学生定員は文科省任せではなく、各大学自身が決めることになります。新しい総長には、決断力と責任が問われます。文科省を批判をするだけではなく、自らが大学運営のプレイヤーとして、行動をとって欲しいものです。

大学と学生との間は、お店とお客の関係です。そしてカリキュラムや教授は、大学の商品です。売れる新商品を置かずに売れない古い商品ばかりを置いていては、客は来ません。自分の学問を守れと主張し、大学の自治だけを唱えるのは、誰も使わない高速道路やダムを造り続けろと主張する土建業界・族議員に似ています。国民(受験生や社会)が求める教育をどう具体的に提供するのか、大学が自ら決断して行動をとる時代が訪れつつあります。当事者でありながら無責任に批判を続ける評論家ではなく、行動をとる大学運営のプレーヤーが、いまの大学には必要です。

ソビエト連邦に代表される社会主義制度の崩壊は、国家組織が一人一人の国民より偉く、国がすべてを決めて国民はそれに従うという制度欠陥による破綻であったと思います。そして日本の大学は、まだこの共産主義社会制度に囚われています。大学や学問が国民より偉いという奢りが感じられます。古い学問が既得権を主張する日本の大学から、新しい学問はなかなか生まれません。

評論家は、自ら行動をとることはなく、他人の言葉だけを捉えます。いま、少年の幼児殺害事件に対する鴻池大臣の「市中引き回しの上打ち首」発言に、マスコミや野党議員が強く反応しています。どうして、このような事件の解決のための法改正や社会制度の具体的改善などの行動をとらずに、鴻池大臣の言葉尻にばかり関心が行くのでしょう。政治家やメディアがとるべき行動は、違うように思います。日本のメディアは、アクション政治に対する報道は全く不十分でありながら、スキャンダラスな発言に対する評論ばかりが紙面を飾ります。

鴻池大の今回の比喩の使い方は誉められないまでも、彼のこれまでの特区実現のための官僚・族議員(族大臣)との闘いと行動は、国民にとって大変有益なものであり、十二分に評価するべきものであったと思います。

何もせずに評論ばかりのこの国に必要なのは、プレイヤーです。その意味において、口うるさい評論家(阪神ファン)に毒されて毎年勝つ気のなかった(?)野球チームを、勝つ阪神に変えた星野さんに、今年はちょっと応援したくなりました。SK