北京の胡同(Hutong)の家。灰色の屋根瓦と灰色の石の壁。04年4月20日。
97年にアメリカで見たリチャードギアとBai Lingの映画「Red Corner」がいたく気に入ってしまって、灰色の壁と瓦屋根の続く北京の下町を鶏が走りGereが自転車で走り回るあの画面のロケ現場を見たいと思って、北京に行くたびに探すのですが、なかなか見つかりませんでした。一度、北京の中央駅に近くにそれらしい風景に出くわしたのですが、ちょっと違う。4月に北京に2日間出張の機会があったので[1]、研究室のかつてのメンバーであり中国科学院の教授に探してもらいました。彼も行くのが初めてという胡同で、ついにそれらしき景色に出会いました。きっとここに違いない、まさに映画の中にいる気分でした。映画と少し違うように感じるのは、映画はアメリカ人による味付けになっていたからでしょう。大阪が舞台の「ブラックレイン」でマイケルダグラスがバイクで走り抜ける阪急百貨店とグランドビルの間のイメージも同じです。アメリカ人の偏見と憧れが交錯していて、なかなか面白い気がしました。
主演のリチャードギアは、「アメリカン・ジゴロ」や「愛と青春の旅立ち」「プリティー・ウーマン」など、役どころがセクシーすぎて苦手な人も多いようですが(もてる役をするので、むしろ男性に人気があるかも)、一方、敬虔なチベット仏教の信者であって中国の人権保護活動家のリーダーの一人であるという硬派な素顔を持っています。この映画も、彼の中国政府の人権問題に対する反対活動の一環と言えます。主題は中国人の女性弁護士とアメリカのビジネスマンとの物語ですが、背景には現在の中国の裁判制度の形式主義、政治腐敗、人権侵害などが、さもありなんと描写されています。
中国ではもちろん上映を禁止され、アメリカでも中国人から上映に対する反対運動・抗議運動があったそうです。日本でも、この映画は映画館では上映されなかったと思います(多分)。テレビでは幾度か放映されビデオも出ています。
「Red Corner」の邦題は「北京のふたり」です。日本ではどうしてこんなに安っぽい題名に変わるのか、原題の中国に対する微妙な含みが消えてしまし、薄っぺらな恋愛映画のようなタイトルになってしまいました。映画では、タイトルシーンで英語のタイトルが反転して「紅角落」という中国語のタイトルも出てきました。なぜこちらにしなかったのでしょうか。 リチャードギアと言えば、「An Officer and a Gentleman」も「愛と青春の旅立ち」という安っぽくい邦題に変えられてしまっています。原題に含まれるいろんな背景やニュアンスをすべて打ち消してしまうのは、映画会社が日本の映画ファンを見下しているからなのでしょうか。作者や作品に対する冒涜です。
以前、このホームページ・コラムで新しい外来語をなんでも和製中国語に変えたがる国語審議会の人たちの無教養を批判しましたが、それと同じ恥ずかしさと苛立ちを覚えます[2]。歴史ある大銀行ですら脈絡もなく自らの名前を「みずほ」や「UFJ」、「りそな」と変えてしまうのですから、映画のタイトルの改題ぐらい何でもないのかもしれません[3]。
アメリカ映画は、他国を平然と批判、侮辱します。この映画では、中国政府と中国共産党、裁判制度に対する批判です。アメリカの言論の自由さというか余裕は大したものです。日本と日本人を侮辱した映画もこれまでにたくさん作られています。最近ではソビエト海軍が整備不良の原子力潜水艦を航海に出すというストーリーのロシア批判の映画もありました(ハリソンフォード主演の「K-19」[4])。
アメリカには、他国以上に自国の政府や軍、警察官など、権力者の不正を批判する映画が無数にあります。「Red Corner」はフィクションながらも北京の米国大使館と大使館員を痛烈に批判し侮辱しています。権力批判を平然と許しながらも結局は国民が星条旗を誇っている国と、日の丸掲揚を強制する国では、政府や権力者の余裕に根本的な違いがあるようです。
日本では権力者に媚びがちです。阪大FRC(フロンティア研究機構)ではこれまでの大学ではできない新しい挑戦をやろうとしたのですが、運営してきた権力側には将来的に得にはならないであろう挑戦があったと思います。これまでの学問体系やこれまでの教授達より未来の学問体系を目指し未来の大学のあり方を探ることは現体制にとって危険な思想かもしれません。結局、変革に抵抗感のある人たちがFRCの基本概念を完全に変えてしまいました。私の後任のリーダーには、新しい学問分野に挑戦している学者、新しい産業を開拓しておられる工学者、自らベンチャービジネスを起こそうとしている教授を期待したのですが、結果はそうはなりませんでした[5]。
アメリカ映画のようにはいかない??
いやいや、アメリカ映画でも正義は権力に何度もつぶされます。そして、最後の最後に大逆転するのです。それが痛快だからミーハーな映画ファンはやめられないのです。
小さな社会だけで生きていると、外の社会が見えなくなります。北京では景山に上ってみました。そこから見た紫禁城(故宮)の広いこと。その中に数百の建物があり、京都御所とまるでスケールが違います。明朝から清朝にわたる数百年の中国皇帝支配の広大な時空間を夢想して、いまの日本でどうやれば社会の大きな変化の潮流に気づいてもらうことができるかについて、考え込みました。今回の北京の出張はでは、中国科学院に河田研の研究分室をつくることが目的でした。このような小さな活動が将来の大きな潮流の源泉の一つになればと思います。
と、ここまで書いて気がつきました。
チベット解放運動活動の支援者であり中国の人権問題を国連などで演説するリチャードギアが、どうやって北京の真ん中でこんな中国批判の映画を撮影できたのか、についてです。彼は過去に30回も中国にビザ申請をしていながら、一度も入国を認められたことはないそうです。
そうか、中国でロケはしていないんだ。私の探し求めた灰色の街並みはすべてハリウッドにつくられたセットの中でした。映画とは虚構と現実の交錯する幻想の世界。幻想の世界だから私たちはいつも映画に魅了されるのでしょう。SK
[1] 朝日新聞4月30日朝刊6面(大阪本社版)。「阪大の河田さん、中国でナノテク指南」
[2] 昨年の2月のメッセージ。
[3] 朝日新聞5月4日朝刊(文化面)「袖のボタン:元号そして改元」の中で、丸谷才一さんは「みずほ」や「東京メトロ」「平成」などの稚拙な改名にとても怒っておられます。
[4] これも原題は「K1-9;Windowmaker」なのに、思慮なく原題を縮めてしまっている。
[5] 日経新聞5月6日夕刊及び5月7日夕刊。「科学技術拠点へ走る大学人:阪大が社会と接点探る。上・下