2006年8月のメッセージ
ナノテク的発想

「ナノテクって何?」と聞けば、だいたいパターン化した答えが返ってきます。10億分の1メートルの小さな世界であり、分子・原子の世界。これまでのマイクロ・テクノロジーをさらに進めたトップダウンと分子を化学的に組み立てていくボトムアップの世界、生物や自然現象に学ぶ自己組織化の世界、サイズが小さくなって周りの見え方や周りとの関係が変わる世界、物事が量子的になる世界、小さすぎて表面が内部よりも支配的になる世界、などなど[1]。これらの説明は、実はすべて一つの本の受け売りです。エリック・ドレクスラーの「創造する機械:ナノテクノロジー」[2]が原典です。その後のたくさんのナノテクノロジーの本や解説は、みなこの本が原典であり、孫引き・曾孫引きもたくさんあります。この本は2000年のクリントン大統領の所信、国家ナノテクノロジー戦略(イニシアティブ)のきっかけとなった本で、1986年に出版されています。日本では、いま東工大の学長をされておられる相澤先生が翻訳されておられます。日本でも、このクリントン大統領の演説のお陰で、ナノテクノロジーに突然予算が付き始めました。

私は、小学校や中学・高校に講演に行くことがよくありますが、この本の内容とは全く違う観点からナノテクノロジーについて話をします。なぜ、ナノテクノロジーが楽しくてすごいかって話です。

ナノテクノロジーが他の科学技術と違ってとっても魅力的であるのは、これまでの伝統的な学問領域(英語でDisciplineといいます)を「破壊」する科学だからです。自民党を「ぶっ壊す」と言った小泉さんの政治に似ています。あるいは、イノベーションという言葉を作った経済学者シュンペーターが言う「創造的破壊」や、ガリレオ・ガリレイの天動説の「否定」にも通じます。科学における「革命」なんです。科学の「革命」の時代に生きるいまの科学者は、幸せです。新しい発見や発明は、革命の時に集中して生まれます。常識や慣習などの重苦しい物が壊れて新しい物が生まれてくるのを見るのは、明治維新や戦後の復興を見るかの如き痛快さがあります。

例えば、代表的なナノテク材料であるDNAを考えてみましょう。これは生物細胞の中にあるので当然生物学の範疇にあるはずですが、その名前(デオキシリボ核酸)が示すとおり物質的には化学であって、ナノメーターの構造だからもちろん物理学でもあります。さらには、遺伝子治療など医学の重要課題であり、なぜ右二重螺旋構造をとるのかは数学(幾何学)の問題であり、突然変異と交配を重ねて情報を世代を超えて伝達するので情報学であり、電気を流して抵抗値を調べたり引っ張り力を計ったりするので、電気工学や機械工学でもあります。さらには、マイケル・クライトンが「ジュラシックパーク」で定義した哲学的テーマでもあります[3]。

日本の哲学者は、遠く昔の時代の遠く離れた国の哲学を学ぶことを哲学研究だと思っておられるかもしれませんが、欧米の哲学者はいまの人間社会で起きている現実として最先端科学を哲学します。ナノテクノロジーの会議に哲学者が出てきて、ナノテクノロジーの地球環境や人間社会に与える危険性に警鐘を鳴らします。日本の哲学者は、現代の科学技術を学んだり、科学者会議に参加されることはほとんどないと思います。科学が哲学から別れてまだ僅か300年であり、その科学がいまや物理とか化学とか数学とかに分断されています。

さて、ナノテクノロジーがすべての学問体系を含んでいるのなら、これを学ぶ人たちは大変です。物理を学び化学を学び生物を学び、そして医学や電気工学などを学ばなければ、DNAというナノ材料を理解できずに扱うことができないということになるならです。勉強ばかりに時間が掛かり、人生、間に合いません。

しかし、やるべきことは全く逆です。上述の学問を事前にそれぞれ習得することなど、必要ありません。学問よりも先にまず、DNAとかカーボンナノチューブがあるのです。「もの」や「現象」よりも先に学問があるのではなく、学問とは所詮それらを説明・解釈するための道具に過ぎないのです。学問を事前に修得するのではなく、DNAやカーボンナノチューブを理解するのに必要な時に必要なところだけを、つまみ食いすればいいんです。そんなやり方では学ぶことができないと思われるのは頭が固く古い学問に雁字搦めになった人の発想法で、学習の仕方は自由です。学問はばらばらに破壊して、好きに学んでもいいのです。英語の文法を先生の言うとおりに勉強しなくても、英語を話すことは可能です(残念ながら、教科書にしたがって勉強して英語を話せるようになった人はいないのです。アメリカ人は文法など知らないけど、ぺらぺらです)。

こういうことになると、むしろ古いパターンの勉強をしていない人の方が、ナノテクノロジーを習得するには有利かもしれません。実際、ナノテクノロジーに関するテーマで教授と助手と大学院生が一緒に研究を始めたなら、教授が勝つとは限りません。たくさん長く勉強してきてしまった教授は、既成概念、固定観念に縛られ、アイデアは生まれにくく、発見を見逃すかもしれません。年長者(親や教授)には携帯電話やパソコンの使い方が分からず、動かなくなったらパニックになって、若者(子供や学生)に助けて貰うのと同じ事態です。

これだから、私はナノテクノロジーは楽しくってやめられないんです。若い人に教えることは大切ですが、若い人と一緒に競争して新しい物を見つけ出したり作り上げたりすることは、もっと遙かに研究者に喜びを与えます。国の予算が付く前の日本には、ナノテクノロジーの研究者が少なかったと思います。権威がなく、教科書がなく、行方が見えないと、研究者の参加は多くないのです。私の分野である「光学」分野には日本に大勢の研究者がおられますが、いまでもまだナノテクノロジーにのめり込む研究者は少ないと思います。ナノテクノロジーは、冒険心のある研究者にはチャンスです。今なお、教科書など書ける段階にはなく、産業も生まれておらず、まだまだ行方混沌です。いまからでも、まだまだ貢献できるチャンスが無限にあります。

ナノテクは、「創造的破壊」(前出)の科学技術です。既得権益者や年長者に有利ではなく、年長も年少も一緒になって競い合う科学です。未来の人の社会にどれぐらい大きな影響を与えるかは、まだ見えていません。この科学と登場と同期して、政治や経済、地球環境、教育、ビジネス、福祉、国際関係、哲学、社会思想など、人が作り出した理屈やしくみ、学問が、それぞれの世界でいま崩壊しつつあります。次の時代を切り開く「創造的破壊」を実現するのは、「ナノテク的発想」だろうと思います。SK

[1] 河田 聡監修・佐藤銀平著「図解ナノテクノロジー:しくみとビジネスが3分で分かる本」技術評論社, 2005.

[2] Eric Drexler, Nanotechnology: Engines of Creation, Anchor Book, 1986; 相澤益男訳「創造する機械」パーソナルメディア社, 1992.

[3] 何度もあちこちに書いていますが、マイケル・クライトンは「ジュラシックパーク」で遺伝子工学や生物学を厳しく批判し、「プレイ」でナノテクノロジーとネットワーキングの恐ろしさを小説にし、「恐怖の存在(原題State of Fear)」で炭酸ガスによる地球温暖化現象の上滑り的議論を批判しています。ダン・ブラウンも「デセプション・ポイント」と「パズルパレス(原題Digital Fortress)」の中で、スペースサイエンスの国家研究やIT依存に対する危険性を訴えている。まだ読んでない方がおられれば、これら全部を是非お読みください。例えば、日経サイエンス「ブックレビュー:フレッシュマンのための読者ガイド、理系・文系を超える」2004年5月号などに、私も書評を書いています。