いつの間にか雪が降りはじめました。しんしんと降っています。久しぶりの雪ですが、積もりそうにはありません。理研のオフィスの窓から外を見ると、雪の降る木立の向こうに白い低層のアパート群と灰色の高層の建物群が見えます。少し離れて、巨大な鉄塔が建っています。人の気配はまったくなく、車だけが静かに走っています。どっかで見た景色。そう、北朝鮮です。となりのオフィスに行って、窓の外を見るとやっぱり同じ景色。研究員に「この景色、北朝鮮を思い出すよね」と言うと、「確かに」と同意。さらにとなりのオフィスに行って窓の外を見ると、雪で遠くのビルが霞んで来ました。「北朝鮮に似てない?」、「ほんとだ」。
誰も北朝鮮に行ったことはありません。テレビで見る北朝鮮のドキュメンタリー番組のシーンを、それぞれが思い出したのです。建物が四角くて灰色と白で無機質だからでしょうか。特に、なんとか大学校という国の建物は壁のように長くて高くて、その向こうの風景を遮っています。本当は壁の向こうには、晴れた日には富士山が見えるはずなんです。
北朝鮮は、民主主義国家です。正式の国名は「朝鮮民主主義人民共和国」です。民主主義・民主制とは君主制に対して生まれた概念で、主権が民にあることを意味します。民主主義では、国の意志は民衆の多数決で決められます。今回は、少しこの民主主義に挑戦してみたいと思います[1]。
民主主義では、少数は多数の決定に従わなければなりません。多数の利益・快楽・安心が少数のそれに優先されます。どんなきれい事を言っても最後は投票です。これは「めちゃくちゃ」危険です。ドイツでは1934年にヒットラーの民衆支持率は90%を超えていましたし、今でも、イスラエルではガザ地区への最近の無差別攻撃を95%以上が支持し、80%以上は無条件で支持しました。
特に日本は均質な社会であり、多数決で弱者が差別されやすい社会です。教科書も入試も入学日や入社日も同じ、同じ歳で定年を迎えます。このような均質な社会では、全員一律に規律・規制を設けることが簡単です。人と違うスケジュールで動いたり違う勉強をする人は、規律を乱す迷惑な人です。赤い髪や縮れ毛は、校紀に反するのです。
郷にいっては郷に従え、長いものには巻かれよ、赤信号みんなで渡れば怖くない。均質な社会での民主主義は、大衆の意見に従わぬ者や異端な生き方をする人を、村八分・つまはじき・のけ者にします。 戦前だとそんな人たちを非国民と呼び、憲兵がしょっ引いていきました。今の時代は、東京地検です。東京地検は、江副さん、ホリエモン、ムラカミさんを、マスコミを通じて大衆を扇動して、突然に強制捜査・逮捕します。ああ、恐ろしきかな東京地検特捜部、私もできるだけ人と違わぬよう、ひとり目立たぬよう、皆で一緒に赤信号を渡ろう、と考えさせるための抑圧効果を狙うのでしょう。今日もまた、東京地検特捜部とはやっぱり憲兵隊だったんだ、と再認識させられるニュースがありました。
福沢諭吉は「この人民ありてこの政治あるなり」という言葉を残しています。大衆が愚かだから国が愚かなのだ、と言うわけです。そのためには大衆を賢くしなければならない、それが「学問のすゝめ」です。
「格差社会」とか「下流社会」という言葉を流行らせる人たちがいます。これは、収入や職業で人を差別する言葉です。「派遣」についての報道も、派遣社員を社会の下の人と見下す人たちが好む言葉です。高い給料より自分の生き甲斐を求めるという人がいてもいい、と思います。「給料が安いということが「下流」ではありません。「遙かなるケンブリッジ」だったか「イギリスは美味しい」かに、貧しくとも気位の高い上流家庭の人の話がありました。「武士は食わねど高楊枝」なんて言葉もありました。一企業のために働かないという自由、ある時期失業をする自由があってもいいと思います。龍馬は脱藩をしました。それを選ぶ人が可哀想な人とは限りません。
倒産や失業は必ずしも、間違ったことや悪いことや後ろめたいことではありません。私は、それらは社会にとってむしろ必要なことだと思います。倒産や失業はがなければ、いつまでも古い会社だけが生き残り、古い社員ばかりが生き残る既得権益社会になります。これでは新しい産業が生まれません。若者には夢が持てません。
倒産や失業がない社会を求めるのではなく、そのような状況に至った人たちが不安なく新しい産業や仕事を捜しあるいは生み出すまでの間、支援する社会保障を求めたいと思います。失業保険はそのためにあるのです。
日本は「長いものに巻かれて生きよ」の社会です。徳川家と他のお殿様、東京と他の地方都市、巨人と他のチーム、トヨタと他の自動車会社、東大と他の大学、、、、、。めったに交代のない強いもの勝ち社会です。就職活動をする学生は、中小企業よりも大企業が大好きです。彼等にとっては規模が重要なのです。「大きいことはいいことだ」というコマーシャルもありました。
戦後はずっと自民党で、政権だって交代がありません。先日の新聞のコラム で(見つかりません、すみません)、日本には2大政党は育たないだろうという意見がありました。日本社会が均質であって、普通の国に見られる多様性や対立構造がない(許されない)からだというのです。
世界の国には、ひとつの国の中に色んな宗教があったり、複数の公用語があったり、豊かな人と貧しい人が共に暮らしていたり、11歳で大学へ行く人とそうでない人を分ける国や、色の黒い人と白い人と黄色い人が共に暮らす国など、様々です。そこでは大衆とは一つの立場を取らないのです。
アルカイダの友達の友達だという大臣が、民営化されたはずの郵政会社を上の立場から脅したり虐めるのも、東京地検特捜部が国政のトップになりそうな人の秘書を突然強制捜査するのも、マスコミを通して情報をリークしつつ大衆の気持ちを巧みに操作しようとしているのでしょう。窓からの雪景色を見て、民主主義に改めて複雑な思いを持ちました。 SK
[1] より正確に言うと「朝鮮民主主義人民共和国」には「人民」という言葉が入っています。中国は「中華人民共和国」であり、やはり「人民」です。こちらは民主主義の言葉はありません。「人民」主義とは英語でポピュリズムであり、煽動的な愚衆政治のイメージがあり危険視されることがあります。ここで取り上げる民主主義は、正確には人民主義を指しています。