生態系において生物の多様性が失われつつあります。環境を保全し生態系を守ろうと、世界でいろんな活動が展開されています。日本でも「2020年までに絶滅危惧種を生み出さない」という法案が準備されているそうです。
ところが、私は憂鬱な気分なのです。政府やマスコミが地球温暖化と二酸化酸素削減を言いはじめたときにも戸惑いを憶えましたが [1]、今回はもっと気が重い。
リチャード・ダーウィンの『種の起源』によれば、種の進化は突然変異と生存競争がもたらします[2]。自然条件と飼育栽培下で変異の程度は大いに差があり、飼育栽培下における変異の方が遥かに大きいそうです。遺伝子操作は、その極端なケースです。一方、生存競争にも自然淘汰と人為選抜があります。生態系は多体の複雑系であり、人為的に目的指向の制御をすることは困難です。自然の生態系の中で食って食われて寄生して寄生されて、食物連鎖ができあがっているのです。もし敵がいなければ、種は生殖によって指数関数的に増加してしまうはずですが、敵がいなくなるということは彼等にとっての食糧難を意味します。増えすぎた種は、一気に大量死そして絶滅へと進みます。
そして実際に、種は絶滅します。地域を支配してきた種が絶滅すると、その後に多様な種が生まれます。雑草を一生懸命抜いてお気に入りの花を育てようと思っても、雑草を抜ききったとたんに新たな雑草がでてくるのです。
恐竜が絶滅して、人が地球に生き残ることができました。自然淘汰です。種の絶滅はとても悲しいことですが、絶滅は生態系における進化の重要な要素なのです。絶滅種があって、新種が生まれるのです。人為的な操作は短期的に成功しても、長期的にはかならず失敗に至ります。「2020年までに絶滅危惧種を生み出さない」という法案も、人為的すぎて危なっかしいと思います。
ナショナル・ジオグラフィックの最新号(2010年3月号)に『オオカミとの闘い』と題した特集記事があります。日本において狼(ニホンオオカミ)が絶滅して100年以上になりますが、アメリカでも家畜を襲うと言う理由でタイリクオオカミが射殺されたり毒入りの餌で殺されて、1930年代には西部からいなくなったそうです。そして、1974年にはアメリカ本土で絶滅危惧種に指定されました。これらは人為的淘汰です。ところが自然愛好家の意見もあり、1995年にイエローストーン国立公園とアイダホ州の自然保護地区に、カナダで捕獲した狼を放したそうです。最上位の捕食動物が戻ってくることで食物連鎖が修復され、生物の多様性が復活できる可能性があるというわけです。オオカミがいなくなった後にエルク(野生のシカ)が増えすぎて、それが植物を食い尽くしたために逆にエルクを射殺しなければならなかったのです。オオカミが放されてからはウシもエルクもオオカミにやられないように頻繁に移動するようになったため、若木が食い尽くされることがなくなり豊かな森が復活したそうです。森が復活すると小鳥がやってきて、鳥が木の実を運んでさらに森が広がります。そこに昆虫や両生類が戻ってきます。ここまでならいいとても話なんですが、実際は早くもまたオオカミが繁殖しすぎて、問題が振り出しに戻りつつあるそうです。人為的操作は自然にはなかなか通じがたいものです。
捕鯨禁止運動も海の生態系を狂わせます。海洋で最強の動物であるクジラを守ると、彼等が海の生物を根こそぎ食い尽くしてしまいます。ヘラルド・トリビューン紙によれば、捕鯨運動に反対するオーストラリアではカンガルーが年間に300万頭以上殺されているとのこと。本当かなという数字ですが、その後、訂正は出ていません。
種だけではなく個体もまた、その命は有限です。高齢者が死んで、そして若者が育ちます。人と社会の進化は、世代交代によって生まれるのです。「すべての種を残す」という生態系に対する人為的操作は、新種が生まれるチャンスを奪い、結果的に生態系の環境破壊を生む恐れがあります。
スウィフトはガリヴァーをラグナグ王国(不死人間の国)に連れて行き、不死人間に会わせました。スウィフトは、人が死ぬことは悲しいことだけど死なないことは醜くて恐ろしいことなんだ、と教えました。当時のイギリスの長老政治に対する皮肉ですが、真理かもしれません。
種が絶滅することは悲しいことです。人が死ぬこともとっても悲しいことです。実は昨夜、私の義母が亡くなりました。義父が死んで、13ヶ月後です。残念で悲しい限りです。出も、個体と種の死は、新しい種と子孫の未来への進化における必然なのです。種の絶滅は自然淘汰そのものであり、進化の過程でなのです。
さて、やっと本題。
JALは、航空業界の絶滅危惧種でした。この絶滅危惧種を人為的に救済することは、航空業界という生態系にとってどんな影響を与えるでしょう。もし自然(経済)の摂理に任せてJALが絶滅していれば、そこからたくさんの優秀なパイロットや優秀なキャビンアテンダント、有能なメカニックやグランドのサービスの人たちが、市場に出てきたことでしょう。彼等を狙って、たくさんの新しい航空会社が生まれてくることでしょう。種の多様化です。古い体質のJALに代わる新しいコンセプトの航空サービスのビジネスが生まれるチャンスを、日本は否定したのです。自然淘汰を経ずに進化はありません。世界の航空業界の生存競争の中で、この人為的選抜は将来に取り返しのつかない失敗を日本に与えるかもしれません。
生存競争で生き残れない絶滅危惧空港である関空を人為的に残して、伊丹を射殺しようとする知事さんの行為は、生態系を破壊し進化を妨げます。これもまた、自然体でいかれるのがよかろうと思います。SK
[1] このサイトでは私はこれまで、「温暖化対策とは環境利権という新たな利権構造の構築ではないか」という問いかけを繰り返し行ってきました(2005年8月「お稲荷さん」、2005年10月「万博・反博」、2007 年10月「ノーベル賞授賞記念、ゴアさんは昔の方が格好良かった」、2008年10月「不都合な科学」など)。『エコポイント』なる制度は環境の名を借りた『環境利権』です。本気で環境を守りたければ、ハイブリッドカーや電気自動車を開発して製造して消費者にエコポイントの餌を吊って買わせるのではなく、自家用車を捨てて自転車とタクシーを使うべきでしょう。古いエアコンのエネルギー消費が大きいというなら、エアコンを買いかえるのではなく扇風機と団扇で辛抱するべきでしょう。
マイケルクライトンが厭味たっぷりに「State of Fear」という環境利権の小説を書いても、日本ではまるで通じませんでした。 この小説は翻訳されて日本では「恐怖の存在」というタイトルが与えられています。しかし、Stateは「州」あるいは「国」の意味もあり、『脅されて怯える国』という意味に捉える方がいいと思います。地球の温度が上がって大変なことになると脅されて『恐怖の状態』にある国です。
そのマイケルクライトンの遺作『NEXT』が、昨年出版されました。『NEXT』を書いたときのクライトンはすでに死期を悟っていたのでしょうか。『ジュラシックパーク』の時より遥かに痛烈に(それでもユーモアたっぷりですが)、遺伝子工学に対して批判をしています。死後に彼のマックの中から見つかった本当の最後の遺作『パイレーツ』には社会批判はなく、最後の冒険小説を楽しんで書いかの如きです。
小説家としてだけではなく思想家として社会と科学にとって大きな影響を与える存在だったマイケル・クライトンの死は、本当に残念です。最先端科学のエシックスを誰が語るのでしょうか。最近になってようやく温暖化のデータ捏造などの報道が出てきましたが、日本のマスコミは熱心には取り上げません。そして相変わらず、環境に名を借りた天下り組織がさらに増えそうな気配です。
[2] 渡辺政隆『種の起源』、光文社古典新訳文庫、2009年9月。ダーウィン生誕200年かつ『種の起源』150年記念なんです。渡辺さんについては2008年12月の私のメッセージで紹介しました。