2006年10月のメッセージ
学校教育のせい?

海外出張中に日本にも新しい総理大臣が誕生しました。「戦後」生まれの初めての総理大臣ですから、国民の期待が高まります。「戦後」をいうときには、日本がまだ貧しくて必死に立ち直ろうとしていた「戦後・復興」の時代と、世界第二の経済大国となった後の「高度成長・バブル」の時代に分けて考えるのが、妥当だと私は思っています。新しい総理大臣はその前半の教育を受けた人です。いまはさらに進んで、ピークを迎えた後の第3の時代、「少子・高齢化」の時代に入っているかもしれません。

このような国家の変遷は歴史的に珍しいことではなく、栄枯盛衰は世の常です。イギリスは、大英帝国として世界に君臨した後に、植民地がそれぞれ独立をしその力は衰え、いまでは産業や科学技術、オリンピックのメダル数に至るまで、小さな国の一つになってしまいました。60年代に英国病を経験した後に、80年代にサッチャーさんによって新しい国に生まれ変わりました。サッチャーさんは日本の郵便貯金の原点である郵便貯金制度を86年に民営化し、大学や空港などの多くの国営事業を民営化して、その結果、300万を超える失業者が生まれたといいます。しかし、無駄をカットしたお陰で国の財政は立ち直り、いまでは失業率もヨーロッパで最低です。最近では、サッチャーさんが首相の時に野党であった労働党がロイヤルメール(郵便)を完全に民営化しました。

小泉さんのやりたかったことは、成長が飽和した後のイギリスが選んだこのやり方を真似ることだったのだろうと思います。その意味で、私は小泉さんの目標を大いに評価します。

一方、戦後生まれの新しい総理大臣に私は少し不安を持ち始めました。それはブレア首相とブッシュさんに対する私の不安と似ています。新しい総理大臣は、フリーターやニートなどの日本のいまの若者文化を日本の新たな社会問題と捉えて、それを「学校の教育のせい」だと信じておられるような気がします。そして、学校の先生を厳しくチェックして、先生達を数年毎に再教育して、成績の悪い教師を追放すれば、日本の学校は昔に彼が学んだ学校のように魅力あるものに蘇ると考えておられるような気がします。

いまの子供達の悩み、学校の悩みは、そんな簡単な話ではありません。そんなことで良くなるなら、これまでに十分に現場の先生方の努力で良くなっていたはずです。新しい総理大臣の最大の弱点は、小学校から大学まで一貫教育の良家の子供達が通う学校に通い、大学受験を経験していないことです。普通の日本の子供達や学校の先生の悩みを全く経験するチャンスがなかったことを、彼には謙虚に知って欲しいと思います。さらに彼の経験した「戦後・復興」時代と、その後の「高度成長・バブル社会」さらに「少子・高齢化社会」時代では社会が全く異なることも、知って欲しいと思います。日本の文科省の役人達はいまの学校現場にほとんど行かずに、自分の過去の経験で学校や教育について判断します。これは、イラクの人たちと話をせずにその現場を知らずに戦争を続ける大統領と同じ体質です。

小泉さんは竹中さんと一緒に、「タウンミーティング」を何度もあちこちで開いて、都会や地方の人たちと話をしました。メールマガジンを発行して、一般の人たちの声を聞こうとしました。永田町では独裁者だと言われながらも、一般の人たちからは最後まで高い支持率を得ることができたのも、現場・庶民の声を大切にしたからです。郵便局長やメディアによる「郵政民営化反対」キャンペーンに対して、衆院解散や刺客投入などの乱暴な手段をとっても選挙に勝ったのは、一般庶民の現場感覚を知っていたからなのでしょう。

小泉さんは、新教育基本法を廃案にしました。私は5月のホームページで、小泉さんなら(小沢さんも)新教育基本法を廃案にするだろうとの期待を述べました[1]。現場感覚があれば、日の丸や君が代を強要することが子供達の愛国心を高めることになどならず、逆効果であることを知っている筈だからです。これが分からない代議士や役人は、半年でいいからどこかの学校に行って教育実習を体験し、現場感覚を学ぶことをお勧めします。

人は、自分自身の経験をもとにして教育のあるべき理想の姿を考えます。安倍さんは「戦後・復興」の時代に教育を受けて、その後の「高度成長・バブル」時代の学校の現実を全く実体験していません。私もまた全く知らないのですが、私は「自分は知らない」ということを知っています。小学校や中学、高校で講演を頼まれることもよくあり、その時に先生方から根掘り葉掘り聞いて、様々な問題を学びます。

安倍さんが育った「戦後・復興」の時代は、浪漫の香りあるよき時代でした。「ALWAYS三丁目」という映画は、その時代を懐かしく思い出させてくれます[2]。昭和33年、「戦後・復興」の東京が舞台です。当時、私の家にも冷蔵庫や洗濯機、テレビ、掃除機などいろいろなものがやってきて、だんだん豊かになりつつある時代でした。テレビでは「パパは何でも知っている」などのアメリカの家庭ドラマが放映され、アメリカのさらなる豊かさに皆が憧れました。町にダイハツのミゼットが走る風景は、まさに私の少年時代の日本そのままで、懐かしさで一杯になりました[3]。宇宙や未来にしか使われなかったCGを、もう現実に見ることができないと思っていた過去を現実かのように見せてくれる日本映画に、ハリウッドより文化的深みのある日本映画の新しい挑戦を垣間見ることができます。

映画のCGではなく現実の世界では、昭和30年代の日本や世界はもう存在しません。いまの子供達が生きる日本や世界は、当時とは全く違っています。30年代には、子供達はみな外に出て遊んだものです。通学路に子供や高校生が出入りするようなゲーセンやコンビニやファミレスはもちろんありませんでしたし、家にもプレステはなく、携帯電話もDVDもパソコンもありませんでした。いまの子供達は、毎日毎日限りない情報の洪水とさまざまな刺激を受けて、食傷しています。子供達の学力低下、向上心低下、モラル低下、非行やニート問題は日本だけの教育問題ではなく、アメリカやドイツなどのいわゆる先進国の共通問題です。

そのような教育の現場環境における時代の大きな変化を知らずに、「昔の学校教育は良かった」と言っているようでは、戦前の教育にノスタルジーを感じている年寄りの政治家と変わりがありません。現在の子供達の悩みや問題は、学校教育や学校の先生のせいにできるほど簡単なものではありません。総理大臣が選ばれた教育再生会議のメンバーが、どの程度自分の少年時代の思い出から脱却できるのか、どの程度たくさん現場を回ってから発言するかが、この委員会が国民のためになる会議になるかどうかのポイントだと思います。再生会議には私も知る優れた方々もおられますが、思いこみで発言する人やいまの現場を知らずに発言する人も多いようで心配です。特に英語の小学校からの導入を主導した方がおられるのは、この委員会の限界を表しています。中学高校の6年間も英語教育を学校でやっていながら、日本人がまるで英語が話せず英語苦手意識を持ってしまう日本の英語教育の過ちをまるで解決することも反省もすることなく、小学生までにこの問題を広げていくことは、重大な間違いだと思います[4]

日本の教育を本気で改革して、心優しく個性に溢れて優れた人格を持つ有能な人たちを育てたければ、私の提案は一つしかありません。いまの日本の受験制度を廃止することです[5]。戦後の日本人をダメにしたのは、受験制度だと思います。格差を許さずに成功者を妬んで文句ばかり言う人たちには、受験戦争の敗者のカルチャーがあります。自分の出世や自分の得になることばかりを考えて発言する人たちには、受験戦争の勝者のカルチャーがあります。このどちらも受験制度の被害者だと言えます。日本からいまの受験制度がなくなれば、もっともっと日本人の心は豊かになることでしょう。大学全入時代といえども各大学の定員は限られており、企業は優れた学生が欲しいので、受験がなくなることはありませんし、自由社会において、競争は認められるべきです。それでも私が無くしたいのは、日本の「受験制度」です。日本の「センター入試」制度です。これを無くせばこの国は良くなると思います。今の日本のセンター入試は、最初に共通一次入試制度を作ることを計画したときとは全く異なったひどい試験制度になってしまっています。最初は、アメリカのSATという共通テストを模倣するはずだったと思います。SATとはアメリカにおいて大学入試の負担を簡単にするためのある種の資格試験であり、SATの試験結果がある点数に達した学生だけがその大学の受験資格を得るというものです。点数で合否が決まるのではなく、ある点数に達すれば資格が得られます。このことは日本の入試と大きく違います。満点からいくらミスをしたかの減点主義ではないのです。日本のように1点でも多く点数をとらないと、大学に合格しないという制度とは異なります。SATは1年に7回試験があり、何度でも受けることができます。外国人の大学受験に必要な英語の共通テストのTOEFLやIELTSと同じです。TOEFLとIELTSも、アメリカやイギリスの大学に外国人が入るための英語力に関する資格試験だと言えます。ある点数に達しない学生はその大学で英語の授業についていけないと、判断されます。

SATと日本のセンター入試のもう一つの重要な違いは、SATは英語(母国語)と数学しか科目がないことです(最近では小論文もあるそうですが)。日本のセンター入試のように、物理や化学、生物学、歴史、地理、外国語(アメリカで言うとスペイン語)、あるいは古文や漢文などの教養科目はありません。そんなものは大学で勉強しろってことでしょうか。英語(母国語)と数学だけ、すなわち「読み書き・そろばん」ができればいい、ということなんです。そして「読み書き・そろばん」がしっかりできないと、この大学では授業について来れないよ、っていう訳です。

日本でもし英語が大学入試や高校入試になければ、学生は学校でもっともっと英語を楽しんで勉強することでしょう。そして、もっともっと英語を話すことができるようになると思います。日本でもし物理が大学入試や高校入試になければ、若者は理系離れすることなく、もっともっと物理を楽しむ人たちが増えることでしょう。いまの受験は日本人に、自分さえよければいいんだという自分中心のわがままさを植え付けて、平均値から離れた優れた人たちに対して妬んだりひがんだりする貧しい心を育てます。受験を肯定する人たちは、人の生まれつきの個性や能力の差を否定し、格差社会を否定します。新しい総理大臣や教育再生会議の皆さんが教育改革を叫ばれるのなら、ぜひ日本の大学受験制度を廃止することを検討していただきたいと思います。いまの日本の若者の意欲の低下や犯罪の増加や社会の歪みさらには理系離れや英語嫌い数学嫌いの増加は、現場の「教育のせい」ではなく「受験制度」のせいだと思うのです。SK

[1] 河田 聡、2006年5月の今月のメッセージ

[2] 最近は、軽薄で中身のないハリウッド映画に変わって、日本映画がとても味わい深くなっています。今年の7月のメッセージでも、「博士の愛した数式」と「明日の記憶」を紹介したばかりです。「博士の愛した数式」で先生役で登場する吉岡秀隆さんALWAYS3丁目では売れない作家役をしています。

[3] 当時の、テレビ番組で大村崑と佐々十郎の「やりくりアパート」もとても懐かしいのですが、そのコマーシャルはダイハツのミゼットでした。このコマーシャルは録画ではなくライブだったかもしれません。映画にコーラが出てきますが、コーラが日本で売り出されたのはもう少し後のことだったと記憶しています。

[5] 英語教育の小学校への導入については2004年3月のメッセージ(小学生に英語?)に書いています。新しい文部大臣の伊吹氏は、英語よりまず国語が話せるようにすべきと言って、小学校への英語教育の導入に疑問を呈しました。

[6] 私は、日本の受験制度が日本をダメにすることをあちこちで主張し続けているのですが、なかなか取り上げてもらえません。例えば、未踏科学「創造」2003年9月巻頭言