会長室からChairmans Office

第23回会長室から 
『科学エントロピー』


最近、都会にも地方にも空き家が急増しています。主のいない家の中は荒廃し、庭は樹木が生い茂り雑草が生え、まさゴミ屋敷です。このような「乱雑な状態」の量を示す値は熱・統計力学の世界でエントロピーで定義されます。家も庭も放っておけばエントロピーは増大します。エントロピーを減少させるためには、外部エネルギー(管理人と修繕業者や植木屋さん)が必要です。

私たちの住む地球はジャングルから砂漠、海、河、山、平地まで多彩・多様な生態系があり、多種多様なバクテリア、昆虫、魚、哺乳類、草花、樹木などの生命体が共生しています。すなわちエントロピーが非常に大きいと言えます。それでも、地球は決して乱雑ではなく、秩序を持った青く美しい惑星として生き続けています。何が秩序をもたらしエントロピーを制御してくれているのでしょうか。それは太陽から降り注ぐ光エネルギーなのか、それとも神が与えるエネルギーなのでしょうか?

ところで私は、最近、科学の世界に多様性が失われてきて、エントロピーが減少してきたように感じています。科学者が互いに似通ったキーワードで似た研究を始めだしたように見えるのです。これは日本だけではなく、グローバルな傾向だと思います。Walter Issacsonの最新作「Code Breaker」はバイオテクノロジーの最近10ー20年のトレンドである遺伝子工学における、科学者達の嘘と騙し合いと競争によるサイエンスとビジネスの優先権争いの物語です。私が憧れた世界とは違う方向に科学が移り始めたことを示唆しています。私も30年以上前に同様の状況に巻き込まれていたように思います。もし科学者達が個性と多様性を失って同じ研究テーマで競争を始めたなら、科学エントロピーは減少します。遺伝子の構造を解明し遺伝子操作機能を手に入れることができたのは素晴らしいことですが、独創性を産むべき科学エントロピーは増加していないような気がするのです。

今年1月4日のネーチャー誌に、1945年から2010年の間に発表された全論文と特許を調べたところ、disruptive(破壊的と言うより不連続と訳す方がいいと思います)な発明・発見は1945年と比べて91%以上減少したと報告されています。その一因として分野の細分化が指摘されていますが、細分化がdisruptivenessを減少させるとは限りません。むしろ細分化は逆にエントロピーを増大させてくれるかもしれません。私はその主因は、インターネットとインパクトファクター至上主義にあると考えます[Kawata, President’s Message, Optics & Photonics News, 2022年3月号巻頭言]。それらは特にここ10-20年に科学界を激変させてきた外部エネルギーです。インターネットのお陰で世界中どこにいても同時に同じ情報を得ることができるようになりました。その情報源はインパクトファクター(研究成果が2年以内に他の論文に引用された率)の高い雑誌とテーマに集中します。その結果、世界中の研究者のほとんどの人が一瞬に同じ情報の洪水に溺れてしまい、科学エントロピーが減少します。

この状況を打破するには、ひとり流行に背を向けて妄説を唱える科学者の存在が必要です。彼らはいつの時代も一定の少人数しかおらず、その時代の科学者の総数には比例しません。産業の世界でも流行に背を向けて新たなビジネスを生み出す人達、ベンチャー起業家、アントレプレナー達が必要です。世の中がベンチャーブームになってスタートアップの数が増えても、真のアントレプレナーの人数は少ないだろうと思います。

科学者の会社「ナノフォトン」は、常にアントレプレナーでありたいと思います。そのためには既に発明してきた技術や製品に満足することなく、常にdisruptive に、市場が予測できないような変な製品、不思議なデバイス、サービスを開発し続けたいと思います。それがナノフォトンが社会に貢献するための存在意義であり、ナノフォトンの個性だと思います。

註]この小論で使った「科学エントロピー」という用語は私の造語です。エントロピーとはもともと熱・統計力学において定義されていた値であり、情報理論においても使われてきました。私自身、1980年代にスペクトルや画像データのエントロピーを最小化したり最大化することによって回折限界を超えた超解像法や未知成分を発見する分析原理を発案して、論文を書いてきました(Applied Optics 1983、J. Opt. Soc. A 1989など)。そして、ナノフォトンの最新の製品「RAMAN walk」の基本原理にも、エントロピーの概念を活用しました。(精密工学会誌 2021、Proc. SPIE 11098, 2019など)

2023年5月15日
ナノフォトン株式会社
代表取締役会長兼社長 河田 聡