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創立20年
ナノフォトンの歴史3~当時の取締役インタビュー


 20周年記念の取り組みとして、歴代の役員・取締役へ取材しナノフォトンの歴史を紐解くシリーズの第3弾。当時ナノフォトンの取締役を務められ、ナノフォトンの会社としての礎を築いていただいた若松伸二氏に当時の模様を取材させていただきました。(メルマガ編集/原田亮)

若松伸二 氏(元 伯東株式会社 駐米駐在員)

退任時の若松伸二氏

当時、ナノフォトンと関わることになったきっかけをお教えください。

2006年秋頃、当時私は輸入の専門商社「伯東」の駐米駐在員・所長としてアメリカに住んでいたのですが、カリフォルニアのシリコンバレーのクラウンプラザホテルでの河田先生の講演会に出席して、その後でいろいろお話をうかがいました。その翌年1月にサンノゼで開催されたPhotonics West(光関係最大の展示会)で再びお会いし、ナノフォトンの光学コンポーネントを販売してくれる可能性のある企業の知人を紹介しました。
それが河田先生とのお付き合いすることになった経緯です。

その後、私が3月で会社を辞めて日本に戻ることになり、河田先生から手伝ってくれないか?というお話をいただきました。輸入ではなく輸出もしてみたいという気持ちもあって、面白そうだと思い、お世話になりますということになりました。ある意味では拾っていただきました。

なお、伯東はもともとブラジルから水晶原石の輸入販売をする会社でした。高山成雄さんという、アメリカで生まれ、日本に戻ってきて名古屋高等商業学校(現在の名古屋大学経済学部)を出て、その後、伊藤忠商事に勤め、自分でビジネスを始められました。私は1973年にそこに入社し、最初は半導体関係の仕事をしていました。

―ナノフォトンではどういったことをされていたのでしょうか?

Pittcon(シカゴ)のナノフォトンブースで商談する若松氏(2009年)

営業担当の取締役として、自由に活動させていただきました。私が来たときにはまだ営業担当はおらず体制は整っていませんでした。最初のレーザーラマン顕微鏡がうまい具合に日本で売れて、海外でも展開しようというので色々なことをやりました。

記念すべき海外一号機は、インドです。アジア人で最初にノーベル物理学賞をもらったチャンドラセカール・ラマンの弟子が作った学科のあるマドラス大学が納品先でした。そこの先生が気に入って買ってくれたのです。その後、中国の北京の大学の先生が買ってくれたりしました。他にも、韓国やシンガポール、後はドイツにデモ機を持ち込んだりしました。
2009年にはアメリカ・シカゴのPittcon(分析機器で最大の展示会)にブースを設けて出展しました。

―インドで1台目が売れて、海外展開に向けての機運は盛り上がったのでしょうか?

盛り上がりましたね(一番盛り上がったのは私でしょうけど)。マドラス大学の学部長であり、キャンパスの長のベルブルガン教授が名古屋大学に時々来ていて、彼が気に入って買ってくれました。ただ、大変でした。よく停電するので復旧するための電源を入れなければいけないのですが、日本から持っていったものがうまく動かなくて、結局はインドで購入することになりました。太田さんは現地まで何回か行ってもらう羽目になりました。
中原さんがナノフォトンの二代目社長になってから、中国進出をやってくれました。ラマンの権威だという厦門(アモイ)大学に行って、そこで選んでくれた先生と結構話が合って買っていただきました。

インド1台、中国2台、韓国に1台、シンガポール1台、そしてドイツで1台売れました。
また、アメリカにはデモ機を持ち込みました。シカゴ郊外のイリノイ州エバンストンにあるノースウェスタン大学です。ロータリークラブの本拠地がある町で、中西部では結構有名な大学です。その後、イリノイ州立大学に移しました。

―営業については分からないことばかりだったのではないでしょうか?

そうでした。ただ、分からないと言っても、ものを売るのは分かる・分からないじゃなくて、装置を知っていればだいたい対応することができました。また、前職の伯東の経験が生きたと思います。具体的には、色々な人との交渉事です。海外での交渉や契約を含めて、様々なことをやりましたので非常に役に立ちました。そういう土台があったので、営業をやってみようかなと思いました。やるんだったら、良いものを海外に売っていきたい、グローバルに展開したいという思いがありました。

また、自分たちだけでは限界があるので、それまでは代理店契約を結んでいくということはしていなかったのですが、代理店をいかに整備していくかということに力を注ぎました。 ニコンの販売会社でニコンインステック(現 株式会社ニコンソリューションズ)という会社があるのですが、実はそこの顕微鏡を使ってナノフォトンはレーザーラマン顕微鏡を作っていたので、そんなつながりがあってニコンインステックさんに頼んで担っていただきました。ほかにも、色々と声をかけて代理店を担っていただき、代理店の数を増やすことができました。

いかにして世に知らしめるかというのはそんなに選択肢があるわけではなくて、広告宣伝費にお金をかけたからといって売れるものではありません。ターゲットはどこかというのはだいたい決まっているので、そこに使ってもらえるように、レーザーラマン顕微鏡の応用、アプリケーションを使ってメリットがある、そこの研究に役立つというのを示していくしかありません。 そういう意味でも、代理店は重要で、理化学機器、分析機器を扱っているところだったらラマン顕微鏡を使うようなところに行っているので、市場を知っています。海外も同じです。代理店をいかに使うかということが、中国や韓国でも重要でした。小さな会社で、手がないところでやれることと言うのはそれほどないので、やっぱり代理店は良い選択肢だったと思います。

―代理店制度の導入など、若松さんの営業における貢献は大きかったのですね。

私が入った後にラマン顕微鏡の一台目が売れて、その後、売れ始めたということで、そういう意味では販売に微力ながら貢献したという気持ちはあります。 その後も、国内販売は結構しました。兵庫がその一台目で、それから岡山県工業技術センター、住化分析センターや産総研など、様々なところに販売しました。

ナノフォトンの20年間で、若松さんがいた時期はどういう時期だったのでしょうか?

会社が安定に向かう時期だったと思います。それまで営業が専任でいなかったので、その体制を整えて、国内販売も安定して、海外にも販売できました。 利益を出さないと会社じゃない、利益を出して初めて社会貢献できる、と初代社長大出さんが常々言われていたことでしたが、やっぱりそれが重要です。儲けて、会社がちゃんと成り立って、税金を払って、というのが大事ですよね。それでなければ会社ではありません。 その後、二代目社長の中原さんに変わり、次につながる会社の土台を作っていかれました。具体的には、組織固め。どういう組織にするかとか、会社のもろもろのところで、よく考えられた方だったと思います。    

─改めて、当時ナノフォトンはどういう会社でしたか?

ナノフォトンで営業をやっていてしみじみ思ったことは、頭の良い方々と仕事をするのは楽だということです。本当に周りはみんな頭の良い方々で、その後に参画された皆さんも含め、やっぱりすごく楽でした。意図が伝わりやすく、話が早い。仕事も速くて、お客さんの要求を聞いて、これに対して合わせてやってもらって、相手が食いついていたら、向こうも「じゃあ」と注文をくれたりしました。

反対に、営業は基本的にバカじゃないとできないと思っています。世の中の頭の良い人というのは、これをやってもムダだなと頭の中ですべて完結します。しかし、僕らは、ムダだと思ってやったことが注文につながったりします。実際、ソニーに買ってもらったときもそうでした。ソニーに知り合いがいたのですが、ソニーにどうですか?と言ったときに、「うちには関係ない」と言われたのですが、とりあえず行ってよいですか?と行ったら、話が進んで最終的には導入を決めてくださいました。

やっぱり、人間の行動において、ムダなんてものはないのかなと。ムダに見えても何かにつながったりする。ムダだと思わずに足を運ぶのが大事だとつくづく思いましたね。 だから私、NIKEの宣伝が大好きなんですよ。「Just Do It.」とにかくやってみろ。これが大好き。ともかくやってみろという雰囲気が大事。四の五の考えているよりまずは行動してみようという。ことあるごとに言っています。

─若松伸二さんありがとうございました。

「とにかくやってみること」。ナノフォトンは、ナノフォトン2.0として次なるステージに向け、若松さんの想いを胸に、しっかりと今後も挑戦し続けてまいります。

20周年記念パーティーでの若松氏(写真左)と二代目社長の中原氏(写真中央)