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創立20年
ナノフォトンの歴史4~二代目社長インタビュー


 20周年記念の取り組みとして、歴代の役員・取締役へ取材しナノフォトンの歴史を紐解くシリーズの第4弾。今回は、初代社長の大出孝博氏に続いて二代目社長を務めた中原林人氏に当時の模様を取材させていただきました。波乱万丈なエピソードの数々は必見です。今回は、超(長)大作です。(メルマガ編集/原田亮)

中原林人 氏 二代目代表取締役社長

当時、ナノフォトンと関わることになったきっかけをお教えください。

私は、中国から留学し、東京大学大学院工学系研究科で博士号を取得後、航空宇宙技術研究所(現 宇宙航空研究開発機構JAXA)で3年くらい基礎研究をしていました。その後、東大の二代前の先生がノーリツの基礎研究所の所長をされていたご縁で株式会社ノーリツに入りました。そこでは、基本特許の取得を含め何度も技術発明をしたのですが、それと意思決定権との間に距離があることに気づきました。そこで、今度は意思決定ができる経営の方に興味が湧いてきました。

すると会社の中で、経営人材を育成する経営塾が始まりました。講師を呼んで開催するMBAのような学習クラスです。これはチャンスだと、5年間その経営塾に行くことになりました。 2005年末にその塾が終わる直前に、会社に勤めながら社会人経営大学院に行く制度がありました。ちょうど、グロービス経営大学院という、会計士や経営者が先生として教えてくれるところがあると塾の責任者に勧められて、ノーリツに勤めながら2006年4月からグロービスに通い始めました(ちなみに、今のナノフォトン取締役専務である藤原さんとはグロービスでお会いしました。)。

グロービスに2年間通い、MBA取得後もグロービスに行っていましたが、ちょうど7月に通い終えるところで、河田先生と親しいグロービス大阪校の責任者である村尾さんから、「ナノフォトンという会社が経営者を探している」というお話をお聞きしました。そこで、実際に河田先生と監査役の篠原先生と7月終わりぐらいにお会いしました。ちょうど帰省で大阪に帰ってきていたこともあり、面白そうだなと会いに行きました。それがナノフォトンとの接点、始まりでした。

―そこから、どうしてナノフォトンの社長になる決断をされたのでしょうか?

中原氏の社長就任時の記念撮影(2008年)

そのときの話し合いでは、一週間後に互いに結論を出しましょうということになりました。しかし、私は一週間を待たず3日後には、「ぜひやらせてください」と返信をして、再び河田先生と東京でお会いすることになりました。 そこで、新宿駅の上のビルで飲みながら色々お話をしました。「やる」と返事をしたものの、こちらからの一方向的なものでしたので、正式に双方合意したというのはそれが初めてだと思います。河田先生と、世界に出ていくにはどうしたら良いか、世界レベルの技術をどう広めていくかなど、経営や技術についてお互いに腹を割ってお話しました。その際に、河田先生から会社の経営についての資料、いわゆる役員会資料、財務諸表などをバサッといただきました。それを受け取ったときに、「会社を託された」という重みをずっしりと感じました。

その後、家族とも話しましたが、妻も背中を押してくれました。 ただ、一応上場企業にいましたので、ベンチャー企業に行くというのは非常にリスキーだと不安はありました。45、46歳で、子供も小さくて家族を養わなくてはいけないのに会社がつぶれたらどうするのか…と。実際、河田先生からいただいた会社の資料を見てみるとびっくりしました。赤字で大変な経営状況なんですよね。技術はすごいが、経営的には赤字。赤字だけではなく、装置1台3,000万円で、資本金が3,000万円しかないので、どうやってやっているのかな?と思いました。一方で、大学で技術を持っていて、河田先生の教え子たちも会社に入っているので、無形財産としてそこは割と堅実的という印象を受けました。ただ、連続赤字というのが心配でした。あと1期赤字だったら、もうアウトだなという印象でした。  

自分自身も研究者出身なのでわかるのですが、市場での優位性をどうやって取るかというのが重要だと思いました。
みんな技術者集団で、僕自身も博士学位を持っているのですが、会社の中では当時、ほぼみんな博士学位を持っていました。河田先生はじめ学生たちも博士だらけで、改めてすごい会社だなと思いました。

―社長に就任してみていかがでしたか?

本当に大変でした。9月にリーマンショックが起きてすぐの2008年10月1日に入社しました。そこで、取締役の若松さんといろいろな話をしました。1期でも赤字にしてしまうと累損でこの会社ぶっ飛んでしまうと、これは頑張らないと大変だよ、また資金集めをしっかりやらなくてはならないと話をしました。 そこで、まずはすぐにできることとしてコストカットを行いました。出張旅費などを見直し、不要の支出を抑えていく。とにかく回っているのが電気メーターくらいにしようと。そして、営業効率を上げるように力を入れました。

リーマンショックの日本への影響は、時間差でやってきました。我々の営業先、国関係の売上はそんなに影響はなかったのですが、民間は反応が敏感でした。我々のお客さんは大手なので、大手は特に神経が非常に敏感で、経営判断がやっぱり速く、リーマンショックで案件が動かない。案件があるあると言いながら、当時、なかなか動かない。これいけそう、あれいけそう・・と言うけども、なかなかうんと言わない。これは何とかしないといけないと僕の中では焦っていました。

―そんな状況を打破すべく取り組んだことは何ですか?

社内では、全員技術者だったこともあり、「僕たちの技術はすごいんだ」「売れないのはおかしい」という雰囲気が溢れていました。みんな、目線が技術の方にいっていたので、これでは売るのが厳しいと感じて、危機感を抱きました。 そこで、視点を変えることを明確に意識しました。徹底的に社内で議論したのが、市場から見た機能、その機能を実現する技術、その目線で考えようと伝えました。技術から市場を見るのはダメで、見てしまうと一生懸命やってるのになぜ売れないのだと感じてしまいます。つまり、社員が「自分たちがすごいんだ」「こんなに性能がいい」と言っていても、ニーズがなければダメ。それを使ってどういうことができるか示さないと。市場側(お客さん側)から自分の技術を見ましょうと口酸っぱく言いました。 つまり、会社にとってアプリケーションというのが重要で、技術というものをどうやって相手に説明するかということです。そこで、アプリケーションのチームを作りました。

そういった取り組みもあり、当時、営業してダメだったら、1回もらってきて測定してみて、ここまで測れる、これどうですか、というやり方をやっていました。そうした積み重ねのおかげで、それまで8,600万円だった売上が1.2億円になりました。売上も上がったことにより、なんとか最後は150万円の黒字にできました。

―ほかに在任中で印象に残っていることを教えてください。

当時、河田先生は、一つの問題意識があって、従来のような特注対応製品開発ではダメだということを感じておられました。やっぱりカタログ商品をやらなくてはいけないということです。 要するに、当時はマーケティングの戦略を持って、こういうのを作っていこうというのがありませんでした。当時は代理店があまりなかったので、知人を通して誰々が知っている人を紹介してもらうというやり方でやっていました。 ナノフォトンの弱点は、会社の頭がすごくて、マーケティングも充実してきて腕の部分が頑丈になってきても、結局営業である足回りが弱いことです。営業の担当者も高齢になってきており、腕やセンスに頼るという属人的なやり方ではいずれ非常にまずくなると感じていました。組織的にやっていかなくては、誰かが辞めたら、会社が途端にダメになります。でも、営業マンはたくさん雇えないので、この会社が将来にわたりやっていくためには代理店が極めて重要だと、代理店を増やすべく取り組みました。

しかし、それはかなり苦労しました。というのも、装置が難しい。技術が難しい。そして金額が大きくて、営業マンが簡単に売ることができないからです。 どこかを突破しないと、この先が属人的になってしまいます。そこで、全国展開している日本電計にお願いに行きました。代理店をやってほしいと担当者に会いに行ったのですが、なかなか会ってくれなかったので、何度も何度も足繁く通いました。地道に様々な取り組みを進めて、やっとお会いすることができました。そこからだんだんと、経営層まで我々が本気だなということを感じてくれました。説明すると、すぐにこの商品良いねと商品の良さもわかってくれました。日本電計は、会社の中に営業を支援するアプリケーションセンターがあるので、僕がそこでレクチャーやりますよと言いました。そこまでやってくれるんだったら、うちの親分を紹介しましょうと言ってくれて、いきなり取締役営業本部長を紹介してくれました。東京のアプリケーションセンター長も紹介してくれて、彼らが全国から何十人と集めて、そこでレクチャーもやりました。そういうのを地道に誠実にやって、一緒に展示会もやりました。そこで、会長、社長まで全部紹介してくれました。そして、「ぜひ代理店契約やろう」となって、ホームページに一気に代理店が増えました。全国展開している代理店と契約したのがこれが一番最初で、最大だと思います。これが契機となってほかにも代理店契約が広がりました。 2015年3月に僕がやめる最後の最後まで、様々なところに代理店のお願いにまわりました。

―ナノフォトンが大きく成長したきっかけは何だったのでしょうか?

ナノフォトンは、それまでマーケティングを戦略的にやっていなかったので、戦略として力を入れた時期でした。 具体的には、当時1ブースしか出していなかった分析展に、2010年には思い切って3ブースを使って出しました。売上も上がってお金に若干余裕もあったので、上がった分をしっかりとマーケティングに使いました。ブースの設営にも力を入れて、特徴のある言葉に絞って表現し、分かりやすくて遠くからも見える、特に競合のブースから見えることを意識しました。なんとブース屋さんも何十人と見に来るほど、あのブースすごいねと話題になりました。 そして、営業から宣伝からやれることは全部やって、3日間でお客さんが400~500人(!)来てくれました。チラシもなくなってしまうほどでした。いつもは、3日間で30~40人くらいしか来なかったので、一桁違う人数が来てくれました。しかも、その中の何十人は競合他社でしたので、他社からも気になる存在になっていたと思います。名札を裏返して隠してくるのですが、だいたいどこの競合の人かは知っていました。

─いざ、Pittcon出展へ

そんな分析展の成功があって、当時、米国進出したいという想いがあったので、2009年シカゴと2010年オーランドで開催された世界最大の分析機器の展示会『Pittcon』に出展をしました。Pittconは、5,000社もの会社が出展し、会場の中を車で移動するくらい非常に大きいものでした。そこで、特にこだわったことが二つあって、一つが実機の展示。もう一つが目立つことです。 実機展示は、実際に実機を持ち込んでやりました。どうやって目立つかは、真っ赤な法被を作ることになりました。みんな法被を着て、宣伝で会場中をうろちょろしました。

Pittconは海外に出たということが大変重要でした。売上的には厳しかったですが、マーケティングとしては非常に意味がありました。世界最大の分析展なので、日本国内の皆さんにもそこで認知されるという効果がありました。また、我々が宣伝するときに、ベンチャーながら「Pittconに出展してますよ」とPRできて、ステータスにもなりました。

―最後にナノフォトンに一言をお願いします。

ナノフォトンは、河田先生が製品のデザインから入るというのがすごいと思っていて、まさにAppleのような感じで、先見性があると感じています。技術があるだけではだめで、市場をしっかりと見ることが大事です。その意味では、河田先生がいる限りは大丈夫だと思いますが、これからも、市場から技術を見続けることを大事にしてほしいと思っています。その上で、市場から次を見据えて予測することが大事です。大手は石橋を叩いて渡りますが、ベンチャーは大手と違ってチャレンジできるのが強みなので、ナノフォトンは、先を見据えて大胆にチャレンジすることを続けてほしいです。例えば、今だったら、生成AIと画像の相性が良いので、ぜひそういった新しいものにも積極的にチャレンジし続けてほしいです。

―中原林人さんありがとうございました。
中原さんとお話して感じたのは、パワフルでビジョンがあるということです。ナノフォトンの当時を振り返っていただくと、(当初の原稿では、原稿用紙50P・2万字!を超えるくらいのボリュームになる程)当時の熱い想いが中原さんからとめどなく伝わってきました。しっかりとしたビジョンを持ち、常に市場の先を見据えて行動する姿勢を、ベンチャー企業であるナノフォトンは持ち続け、より良い商品開発を進めてまいります。

20周年記念パーティーでは中原氏からご挨拶を賜りました