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創立20年
ナノフォトンの歴史5~四代目社長インタビュー


 20周年記念の取り組みとして、歴代の役員・取締役へ取材しナノフォトンの歴史を紐解くシリーズも今回が最終回。最終回は、ナノフォトンの四代目社長(現社長)であり会長の『河田聡』を取材しました。今までのインタビューでは語ってこなかった内容をお話いただきました。(メルマガ編集/原田亮)

河田聡 四代目代表取締役社長(2019.1~)

大出孝博さんと起業され、そもそも河田先生が当時社長に就任されなかったのはどういった理由からだったのでしょうか?

社長になるつもりは全然ありませんでした。会社経験もありませんでしたし、教授業に多忙で時間もありませんでした。そもそも、当時は大学の教授が代表取締役就任は認められていませんでしたので、私が社長をするという選択肢はありませんでした。


―当時は起業がテレビなど各種メディアで大々的に取り上げられ、大学発ベンチャーがすごいことをしていると注目されていましたが、表に立ちたいという思いなどはなかったのでしょうか?

会社を作ることなんて、簡単なことです。法務局で登記すれば良いだけです。それよりは、その会社が世の中に必要とされて、商品が売れて社会貢献することが目的なので、社長であるかどうかは重要だとは思いませんでした。

―会長と社長という役割の違いはどういったところにあるのでしょうか。
会長と社長で経営方針が異なってぶつかることなどはなかったのでしょうか?

社長は会社において日々のマネージメントやオペレーションといった実務を担います。一方、会長は取締役会の会長です。会社の大きな方針をまとめることと、社外向けの活動だと認識しています。役割も違いますし、歴代それぞれの社長を尊敬していたので、ぶつかることはありませんでした。

初代社長の大出さんは本業のレーザー顕微鏡つくりはもとより、機械ものは何でも自分で修理して改造もしてしまうというものつくりオタクの技術者で、芸術家っぽい科学者の私とは相補的でした。 ただ、ビジョン(夢)には違いがあったかもしれません。大出さんは、日々、注文を受けて設計製作するというビジネスモデルで、きめ細やかに個々のお客さまのニーズに対応する会社を目指されていたかもしれません。私は、世界の皆が使う標準品を開発したいと思っていました。

二代目社長はどういった経緯で中原林人さんに依頼することになったのでしょうか?最初は面識もなかったと思いますが、なぜでしょうか?

ヘッドハンティング会社を使って大企業出身の優秀な人たち何人かと面談したのですが、しっくり来ませんでした。中小企業が日常に経験する倒産のリスクへの危機感や覚悟が感じられませんでした。そして、給与の要求が高く、サラリーマン気質でした。やはり、普通の企業サラリーマン出身者ではなく、会社を作りたいという人を探さないといけないと痛感しました。

そこで、MBAを育成するグロービス経営大学院の大阪代表に相談に行きました。すると、学校は人の斡旋はできないですと断られたので、「それでは学校の玄関の外で待ち伏せして学生さんに声をかけます」と言ったら、中原林人(当時は、謝林)さんを紹介してくださいました(笑)。中原さんは、東大で博士を取られて研究者をした後、民間に移られ、そしてグロービスでリーダー格だったと聞きました。海外経験のあることも必要条件に、と思っていたのですが、海外経験どころか中国出身で、言葉も分からない日本で博士号を取られた苦労人であることにも惹かれました。

―三代目社長のMichael Verstはドイツ人の方ですが、こちらもどういう経緯で就任していただくことになったのでしょうか?

Michael Verstは海外企業のアジア担当で、味噌汁が大好きという日本好きです。日本に来たいという思いが強くて、こちらが見つけたのではなく彼から売り込んできましたが、最後はうまくいきませんでした。売り込みはダメですね。

5年前から、いよいよ四代目社長として河田先生が就任されましたが、どうしてその時は社長を他から選ぶことをされなかったのでしょうか?

それまでの社長は素晴らしい人たちでしだが、それでも会社は成功しませんでした。14年間、会社の社長が3代変わる中で、この会社の社長業はとても難しいということを認識しました。自分で会社を興したことがある、あるいは破綻させた経験のある人でないと、スタートアップの経営はできないと思いました。しかし、日本には起業が極めて少なく、そういう人は見つかりません。創業者で最大の責任者である私にしか、この会社を立ち直せないだろうと思いました。そもそも同じ心意気と覚悟を持つ人がいたとしても、おそらく最大株主で創業者である私に気を遣ってしまい大胆なことはできなかっただろうと思います。

今を凌駕する日本の巨大新興企業がすべからく、後継社長をうまく見つけられないのも同じ理由だと思います。私たちの場合は、社長を雇っても給料が出せないほど危険的な経営状況だったので、そもそも自分でやる以外のチョイスはなかったのです。

─自らが社長に就任されていかがでしょうか? 会長と兼任することのメリットはどういった点があるのでしょうか?

兼任していると権限と責任が集中します。それは、メリットでもデメリットでもあると思います。
今でも、早く社長を任せられる人を見つけたい・・会長職を残して社長と兼任していることは、社長を探しているというメッセージです。

社長としては、製造業務委託や代理店委託、原価削減、販管費削減、本社移転、幾度かのM&A交渉、年功序列終身雇用制度から成功報酬型賃金体制への転換、ホームページ更新やメルマガ配信開始など広報改革・・など様々な抜本的制度確立を行いました。これらは、創業者でないとできない改革だったかもしれません。

―一般に、大学発ベンチャー起業では、研究者が門外の経営に携わるのは難しいとされています。大学教授というと、経営とは少し離れたところにいらっしゃったと思いますが、河田先生は今お答えいただいたような様々な改革に取り組まれ、借金を返し、会社を立て直されました。今や成長を続けて見事に経営をされておられますが、経営感覚のようなものはどのように養われたのでしょうか?

理詰めで考える科学者、間違ったことを言ってはならない教授には、会社経営は無理だと思っていました。数式の記号や数字ひとつでも間違っていたら最後の結論が違ってくるので、一つ一つ細かくチェックすることが職業病として身についています。少々のミスや法螺を許さないと務まらない経営者なんて、私にはできないと思っていました。

しかし、阪大で25年間教授として、理研で13年間主任研究員として、それぞれ学生や研究スタッフ25人以上を抱える組織を運営して成長させてきたことは、社長業に役に立ったと思っています。科学者として大型のプロジェクト予算を得るために、3カ年計画や5カ年計画を繰り返しチームで議論して作成し、成功させてきたことも役に立ちました。多くの国際会議を招聘し、国内外の学会の会長を務めてきたことも役に立っています。

教授の先生方には、ぜひ自ら会社を興して社長になって、日本の産業とアカデミアに貢献していただきたいと願っています。私が起業したのは52歳、社長になったのは67歳の時です。人生まだまだ挑戦のチャンスがあります。

―最後に、次の30年に向けたメッセージをお願いします。

30年前に、今日のウクライナやパレスチナでの侵略戦争や、日本の凋落ぶりを想像できた人がいませんよね。次の30年後も、まだ決まっていません。30年どころか10年先に、人間の支配欲がこの世界を「1984」のディストピアに変えているかもしれません。発展途上国においての人口爆発、食料危機、水不足、環境汚染、感染爆発(パンデミック)、は30年も待たず起こります。日本の人口は、今の推計よりもずっと早くに半分に減り、そして私は生きていたら百歳を超えています。 予測できるのは30年後ではなく、せいぜい3年後です。

そして、 3年後は、世界中でナノフォトンのラマン顕微鏡が売られているはずです。


河田会長ありがとうございました。
最後の、「3年後は、世界中でナノフォトンのラマン顕微鏡が売られているはずです。」という言葉が印象的でした。「売られているようにしたい」ではなく、「売られているはず」というところに、強い想いを感じました。
また、河田会長と話していて思ったのは、生粋のベンチャー気質を持っておられること。「研究者である教授が経営なんてできるのだろうか?」・・今までそう思われた方もいらっしゃると思いますが、河田会長はそもそも教授らしくない、リスクを取ってチャレンジする姿勢を常に持ち続けられ、まさにベンチャー企業の経営者という印象を受けました。
ナノフォトン2.0に向けて、ナノフォトンはこれからも河田会長兼社長を筆頭に世界に挑み続けてまいります。